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開発ストーリー 山形のだしDEVELOPMENT STORY

【第一章】「山形のだし」開発のはじまり

野菜のざる盛り

ある日、山形県村山地方出身・研究開発部の社員が、A4用紙にびっしり書かれた商品開発企画書を持ってきた。 そこには「きゅうり、茄子、みょうが、大葉、ネギ、昆布を細かく刻んで」と、『だし』について書かれていた。 『だし』は主に県南部の村山地方、置賜地方で受け継がれてきた、夏野菜を細かく刻んで醤油をかけた郷土料理。 当時社長であった私は、「これはヒット商品にはならない。」と、即座に却下した。

翌年、今度は天童市出身・営業企画の社員と共に、私のもとにやってきた。 「あの企画は無理だ。」と言いかけたとき、二人は自分たちで作った『だし』を差し出した。なかば疑いながらもほんの少し食べてみると「これはうまい!」すぐに商品化に取りかかった。

【第二章】試行錯誤の日々

山形のだし皿盛り

開発に取りかかった研究開発部は、早速問題に直面した。『だし』は、もともと家庭の冷蔵庫で1~2日で食べきるのが当たり前。 ところが、全国で発売するためには最低でも一週間の日持ちが必要であった。

開発方針である保存料を使わずに、野菜の色や食感を生かして日持ちさせるのは至難の業だった。 何度も試しては失敗の日々が続いた。やっぱりダメかもしれないと、何度も諦めかけた。しかし、諦めることなく挑戦し続けた末に、なんとか1週間の日持ちに成功した。 そして試行錯誤の末、ついに商品化ににこぎつけた。

【第三章】念願の発売!しかし…

2000年5月、やっとの思いで『山形のだし』を販売開始。ところが、想定以上に売れ行きは伸びなかった。

山形では『だし』を知っていても、主力の販売先の関東では、「昆布だし」「かつおだし」などの「調味のだし」が一般的で、 野菜を細かく刻んだ漬物が『だし』ということは理解されにくかった。売れない状態がしばらく続き、製造中止も頭をよぎっていた。

【第四章】地道な店頭販売、漬物王子の奮闘

漬物王子試食販売画像

そんな中2001年3月のこと、庄内地区出身・営業担当の社員が「社長、私は東京に行きたいんです」と言ってきた。 「東京にいって何をするんだ?」と聞くと、「山形のだしをガンガン売りたいです。東京に行かせてください。」と彼の迫力に負け、たった10分ほどの立ち話で、彼は4月から東京工場で勤務することになった。

埼玉にある東京工場を拠点にしてほぼ毎日、量販店の売り場に立ち『山形のだし』の試食販売に明け暮れた。 「山形の郷土食」「山形の家庭料理」を全面に打ち出し、自ら「漬物王子」と名乗り来る日も来る日も試食販売を続けた。

【第五章】発売から10年で大ヒット!

2001年優良ふるさと食品中央コンクールにて農林水産省総合食料局長賞受賞、2002年には山形県漬物展示品評会にて全日本漬物協同組合連合会長賞受賞。 発売と同時に次々と栄誉ある賞を受賞したが、すぐに販売増にはつながらなかった。 漬物王子の試食販売から7年、首都圏でも少しずつ『山形のだし』の認知度が高まってきたころ、TVなどのメディアで次々と取り上げられ、低迷していた『山形のだし』は一気に有名となり販売が急拡大。 ご当地ならではの食や慣習を紹介する県民情報バラエティ番組で取り上げられ、山形に縁のある著名人までもが「だし」を宣伝してくれた。

発売から10年、ようやく大ヒットを記録したのだ。全国区で有名になると、2番手、3番手と『だし』を販売するメーカーが増え、その数は10数社にも及んだ。

【第六章】山形の郷土料理から日本の国民食へ

賞状「農林水産大臣賞」、山形のだし丸カップ画像

2010年、マルハチの『山形のだし』は、漬物のオリンピックといわれる山形県漬物品評会において「農林水産大臣賞」を受賞。『だし』販売メーカーで名実ともにトップになった。

その後、漬物王子は「山形のだし」の立役者としてマーケティング情報専門紙・日経MJの一面トップを飾り、20年間の東京生活に区切りをつけ、故郷山形本社に勤務。営業担当者として活躍している。 マルハチの『山形のだし』は、山形の郷土料理にとどまらず、日本の食卓に欠かせない商品へと進化し続ける。

開発ストーリー

「あきらめない」「寝ても覚めてもの熱い思い」
それこそが私たちマルハチです。